王国成立以来、明の冊封を受け周辺諸国との友好関係を築いていた琉球でしたが、1570年以降、東南アジアとの交易を絶った頃より、薩摩の島津氏による露骨な領土的野心にさらされることとなります。

秀吉の朝鮮出兵に際して、薩摩は兵糧(7000人分を10ヶ月分)の供出を繰り返し要求。明との関係を危ぶむとともに、薩摩への従属につながるという恐れから国論を二分する事態となりますが、圧力に抗しきれず兵糧を送ります。薩摩は追い討ちをかけるように続けて兵糧を送れと、威圧的な命令さえ出しました。

このような介入が続いた後、1609年、徳川幕府の許可を得た薩摩藩が琉球に侵攻します。
琉球王尚寧は、薩摩から江戸まで連行されました。 1611年、国王以下の重臣が島津氏に忠誠を誓うという、屈辱的な起請文を書かされ、なんとか琉球王国の存続だけは認められました。
しかし、実情は薩摩が服属国琉球への支配を容易にする手段だったのでしょう。その後、明との貿易の実権は薩摩藩が握り、薩摩藩はこの密貿易によって多くの富を得、潤います。琉球は、薩摩藩による重い税や、日本式の衣服、苗字などを禁止されるといった制限を受けます。薩摩藩は琉球の異国性を際立たせることで、外国を支配する薩摩という権威を欲したのでした。

幕末には歴史を象徴するような事件が起こっています。その頃琉球には欧米各国から日本の開国を求める特使をのせた船が、多数来航するようになっていました。1853年にはペリーが琉球へ来航。無理やりに上陸をすると、首里城に闖入し開国条約への調印を迫りました。その時の琉球側の対応は非常に興味深いものです。
琉球は代理、つまり偽の王に調印させ、ペリーの帰国をもってこの条約を反故というよりは無効扱いにしたのでした。長く日本と中国という国に挟まれ両国を相手取りながら均衡を保ってきた歴史を感じさせます。

410年以上に渡って続いた琉球王国ですが、1872(明治5)年、ついに琉球王国は明治政府によって廃され、琉球藩と名称を変えます。 1879年には軍隊、警官が派遣され、鹿児島県に編入、さらに今の沖縄県と名称を変えます。この明治政府による琉球王国の滅亡を、琉球処分といいます。